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2月11日
「建国記念の日
(けんこくきねんのひ)」

 「建国記念の日」は、日本の国民の祝日の一つです。 国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条において、建国記念の日の趣旨については「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定されています。1966年(昭和41年)の祝日法改正により国民の祝日に加えられ、翌1967年(昭和42年)2月11日(政令により規定)から適用されました。

 「建国記念日」と呼ばず、「建国記念の日」と呼ぶのは何故か、皆さんはご存じですか?

 世界では「建国記念日」を法律で定めて祝日とする国家は多いのですが、何をもって建国記念日とするかは、国によって異なります。他国のそれもまた、とても興味深いものが沢山ありますが、それはまた別の機会に…。 いずれにしても、どの国においても自らの国の誕生を祝う事は、非常におめでたいことであり、そして誇らしいものです。しかし日本においてはその感覚が少々壊れていると言って良いかも知れません。

日本という国の歴史は世界で最も長く・古いものです。そのような理由が、他国に比べて、その制定に至る経緯と理由が少々異質なものとなってしまった要因の一つと言えます。

日本という国は、今現在、今日に至るまで、一度として一つの王朝が終わった事がないという歴史があり、これは世界中から注目される事実です。あまりにも長過ぎる歴史であり、そして平和であった歴史故に、他国のように歴史を書き残す必要性が生じなかった故か、正確な記録が残っていないという弊害が生じたと言えます。その為、建国の日が明確にわかっていない(定められてこなかった)という状況にあります。このような国は世界で唯一であり、他に例がない事と、歴史上、類を見ない特別な終わり方をした戦争を経験したという歴史的背景により、この事を定めるにおいて、事態は少々複雑なものとなってしまいました。 その点については今回は省きますが、日本国内において様々な議論を経て、建国をしのぶ日として法律に基づき「建国記念の日」が定められました。

日付は政令に基づき、建国神話(日本神話)を基に日本建国日とされていた紀元節(1948年(昭和23年)7月、祝日法制定に際し廃止)と同じ2月11日にされました。 2月11日は、神武天皇(日本神話の登場人物であり、古事記や日本書紀で初代天皇とされる)の日本書紀における即位日(辛酉年春正月、庚辰朔、すなわち、旧暦1月1日(『日本書紀』卷第三、神武紀 「辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮」))の月日としました。 明治5年(1872)11月9日、太陰暦を廃し、太陽暦を採用することの詔書が発せられて以降、日本は太陽暦(グレゴリオ暦)を採用する事となり、2月11日という具体的な日付として推定したものです。

他の祝日が祝日法に日付を定めているのに対し、この「建国記念の日」のみが「政令で定める日」と定められています。この規定に基づき、佐藤内閣が建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定め、「建国記念の日は、二月十一日」としました。

世界中、どの国においても自国の建国記念を祝う事は当たり前の行事です。日本においても、戦前は宮中三殿において、大祭の紀元節祭が行われていましたが、GHQの圧力で1948年(昭和23年)に停止されました。ただし、昭和天皇は翌年の2月11日より、宮中三殿において「臨時御拝」として、旬祭と同じ作法で親拝を行いました。平成以降は「三殿御拝」に名称が改められ、同様に天皇の親拝が行われています。この日、天皇は橿原神宮に勅使を派遣します。 2月11日には、各地の神社仏閣(神道神社・仏教寺院)にて「建国祭」などの祭りが執り行われます。 政府主催の式典はありませんが、「日本の建国を祝う会」が主催する「建国記念の日奉祝中央式典」が毎年開かれ、駐日大使の参列もあります。 旧日本海軍の技術・伝統を継承している海上自衛隊では、基地・一般港湾等に停泊している自衛艦において満艦飾が行われます。

日本における「建国」は、その時代背景によりとても複雑でデリケートなものとなりました。今日に生きる若い方達の多くは意識的に調べない限りは知る機会を得る事はないと思います。この日付や、呼び方一つを決めるだけでも、思想や理想、保守的な立場などが交錯し、激しい議論が交わされるものだったのでした。

紀元節復活に向けた動きは、1951年(昭和26年)頃から見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆議院議員らによる議員立法として「建国記念日」制定に関する法案が提出されました。しかし、当時野党第1党の日本社会党が保守政党の反動的行為であるとして反対した為、衆議院では可決されたものの、参議院では審議未了廃案となりました。 その後、「建国記念日」の設置を定める法案は、9回の提出と廃案を繰り返すも、成立には至りませんでした。1963年(昭和38年)6月20日には、衆議院内閣委員会において、委員長永山忠則が法案の強行採決を行いましたが、これに抵抗した社会党議員らに体当たりされ、入院するという一幕もあるほど、この議論は激しいものだったのでした。 具体的に何月何日を記念日とするかについても、議論がありました。日本社会党は日本国憲法が施行された5月3日(憲法記念日)、公明党(旧・公明政治連盟)設立者、創価学会会長の池田大作氏はサンフランシスコ講和条約が発効した4月28日をそれぞれ提案しました。民社党は聖徳太子が十七条憲法を制定したとされる4月3日を主張し、朝日新聞も社説で同じ日付を提案していました。 これはそれぞれの日本という国家に対する思惑と、国家の将来をどのようなビジョンで見ていたかの表れでありました。各政治団体の国家観や思想をこの日の制定をより詳細に追う事で知る事ができます。

結局、名称に「の」を挿入した『建国記念「の」日』として「建国されたという事象そのものを記念する日」であるとも解釈できるようにし、具体的な日付の決定に当たっては各界の有識者から組織される審議会に諮問するなどの修正を行い、社会党も妥協する運びとなりました。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立しました。 同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第2条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない。」と定めました。当の「建国記念日審議会」は、学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が1966年(昭和41年)12月9日に提出されました。同日、佐藤内閣は「建国記念の日は、二月十一日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を定めて公布し、即日施行しました。

「建国をしのび、国を愛する心を養う」

制定に至る経緯を知り、この言葉を思い、皆様は何を思いますか?

参考出展:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 建国記念の日: 建国記念の日のサイトへ